昭和56年2月10日 月次祭                 中村良一



( 途中から )祈念祈祷で助かるのではない。ね。いうならば、拝んだからと言うて助かるのではない。話を聞いて助かるのだ。話を聞いて、心が生き生きとしてくる。話を聞いて、なるほど、道理だと分からせてもらう。だから、道理に合うた生き方が出来るようになる。ね。それは、話を聞かんでも、お参りをしてこんでもおかげを受ける。おかげだけなら。けれども、金光大神の信心は、どこまでも、話を聞いて、いわゆる、道を覚える。日々、いうならば、生きる手立てを聞いたお話によって、道に基づいた生き方が出来るようになる。そういうおかげを頂くのが、御道の信心であります。
昨日一昨日でしたが、んー、福岡の古谷さんのお導きで、えー、十四年間も、子供さんが出来なかったのが、お願いをして、二ヶ月目に懐妊のおかげを頂いたと言うて、えー、お礼のお電話がございました。ね。話を聞いただけではないけれども、そういうおかげを頂いておる。同じ、その日でしたが、ちょうど、竹内先生のところに、伊万里。毎朝、最近、朝参りをされる婦人がある。この人は、生まれつきに目が薄いんですね。見えないことはないけれども薄い、勿論、だから、自動車の免許なんかは取られない。その人が、この頃、目がはっきり見えるようになった。それで、病院で調べた。こらあんた、もう、自動車の免許とっても良いだけの視力が出来とると言われた、というて、お礼に出て見えました。大して、お話を聞いたわけでもなからなければ、お参りをしてきたのでもないのだけれども、いうならば、そういうおかげは、まぁ、始めの間は、合楽の方達は、みんなそうである。ね。だから、話を聞いて助かると言うのは、ね。その人の心の状態が変わってくる。その人の生き方が変わってくるという事なんです。だから、話を聞いただけではいけない。ね。聞いた話が、言うならば、心に合点が行く、ね。今朝からの御理解の中にも、ね。奥平野と言うところに、片島せんという女の先生がおられた。大変、霊徳に優れられて、御神徳を受けられた先生であります。ある時に、御神前に出て、御祈念をなさっておられると、神様から、世界中の氏子に話がしてみたいと仰せられた。一人一人悩んでおる、苦しんでおる。そういう悩み、苦しみを持っておる氏子に、神の心を分からせたら、心が楽になるだろう、ね。これから、話を聞く耳を持っておったら、助かることが出来るのにと、まぁ、嘆かれたと言うのです。ね。世界中の氏子に話がしてみたい。聞く耳を持たんから、せんにおよばぬと仰ったそうです、神様が。聞く耳を持たぬ、ね。私は信心を、今朝からの御理解の中に、えー、屑の子ほどかわいいという、あの御理解に基づいての御理解でした。ね。なるほど、真の道も、信心の道も知らぬ人の哀れさと、教祖様は仰せられてあります。神様が、哀れを催しなさるような人間が多いのである、氏子が多いのである。ね。そういう、言うなら、人間を、まぁ、神様は、屑の子と言う風に言うておられるのじゃなかろうか。ね。屑の子というても、信心が、段々分かりだす。お話を頂いて、お話が、自分の心にいただけてくるようになると、信心の喜びの光りとでも申しましょうか。心に光が灯るようになる。今まで、気付かなかった心の中が分かるようになる。隅から隅まで分かる。なるほど、これではおかげが受けられんはずだ。こんなに汚れ果てておる。こんなに乱れておる。こんな汚い心で、おかげの受けられるはずはないと分からせてもらう。それこそ、私こそ、屑の子であったと自覚が出来る。いうなら、人間、氏子から分からせて貰う屑の子の自覚。または、神様が、哀れを催されて、まぁ、悲しい事だなぁと、信心の道も、真の道も知らぬ人の哀れさというておいでられます様に、ね。もう、屑の子には、二通りの屑の子があるという事です。ね。神様が、哀れを催しなさるような屑の子。または、自分自身が、信心の光りによっては、自分が分かるようになり、ね。心の隅々まで、その信心の光によって、ね。分からせてもらう時、そこに、その光りに、光り出てくるもの、ね。それは、乱れであり、汚さであり、汚れだけが目立ってくる。真っ暗なときには、心が、どこに汚いものがあるやら、人間じゃき、当たり前のような思い方をして過ごしてきた、あー、いうならば、過去であった。こら、信心を頂いておりましてもね。
やっぱ、今日あの、ある方が、朝の御祈念に毎日参って見える。ね。もう、どうした事か知らんけれども、ここ、二三日ぐらい、心が重くて、心が暗くて仕様がない。その話は、聞かせて貰うと、なるほど、ま、そういう問題にぶつかったら、心も重くなるだろう、心も暗くなるだろうと思うような事であった。ところが先生、今朝からの御理解を頂いとりましたら、もう、それこそ、着いたものが落ちたように、心がスッキリして有難かった。最近もう、秘訣で大変苦しんでおりましたが、急に催しますから、便所にやらせていただいたら、沢山のお取り祓いを頂いた。もう、打てば響くような、なるほど、おかげは心次第、心一つで全てを創るといわれるが。本当だという、いわゆる、体験を頂いて、今朝からお礼を申された方がございました。ね。お話を頂いておると、言うなら、心の耳に入ったのである。ね。頂いておるうちに、有難うなって来た。それこそ、心が重かった。心が暗かったのが、明るくなり、心が軽うなった。本当に、有難いことだと思うておったら、いうなら、ね。何日も何日も、通じがなかったのが、今日は、ここで、お取り払いのおかげを頂いたというのである。話を聞いて、まさに、助かる話であります。ね。だから、話を聞く、いうなら構え、姿勢というものが、いつでも出来ておらなければならない。そこには、いうならば、はやり歌の文句の中からでも、ね。乳飲み子の泣き声の中からでも、神が物いうて聞かすと仰せられる。必ず、お説教台の前から、ご結界からだけという事だけではない。心掛けておると、どこにも神の声がある。
先だっては、親教会の報徳祭でした。私は、何時も、御大祭が終わらせて頂いて、えー、前項の先生の挨拶が済んだら、直ぐ帰るんです。家ではいっぱい、参拝者が待っております。先日も、ちょうど、日曜でしたから、福島と、宮崎から、団体参拝があっておった。帰らせていただいて、まぁ、お取次ぎさせて頂きましたた事でしたけれども、私は、せっかくお参りをさせていただいたんですからもう、何か頂いて帰らにゃというて、こう、弾んだわけではないけれども、何時も、そういう思いを持っておりました。親教会に、お参りをしたたんべんにおかげを頂いている。おかげが頂く、あの、あちらでは、この、ご結界のそこに、日めくりの御神訓が書いてある。そこに、暦が下げてある。だから、そのなかからでも頂く。頂くというて、読んで帰ってきただけじゃなくて、今言う、それこそ、暗い心が、明るくなるように、重い心が軽くなるような頂き方でなからにゃ。はぁ、今日はお参りして良かった、おかげ頂いたというものでなからにゃいかんのです。それが、どうでも頂かなければならんという、何時も姿勢を持っておるから、お参りをしたたんべんに何かを頂いて帰ってくる。ちょうど、星野の、池辺という、んー、池上という先生がおられますが。池上先生が、前講の、いわゆる、その日のお説教なさる先生の紹介をしておられた。その、おー、前講というか、紹介の中で、一口、私が昨日、おかげを頂いたことを、一言聴いていただきますというて、話された。というのは、まぁ、風邪を引いたのか、とにかく熱が、三十八度か九度か。身体が寒気がする。ね。それでも、明日は、親教会の御大祭だから、どうでもおかげ頂かなければならないとお願いをして、休ませて頂いた。奥さんが、生姜湯を作ってきてくださった。それを頂いて休んだ。ね。夜中に、二編も汗が出まして、朝は、スッキリして、今日はこのようにして、御用が出来ます、お参りが出来ましたというお話であった。それには、どうでも、ね。どうでも、明日は親教会の御大祭だから、おかげを頂かなければならぬという、その願いが要ります、思いが要りますという事をいっている。どうでも、おかげを頂かなければならん。そして、そういう願いと共に、願わなければいけないという話を、それこそ、一言でしたけれども、私は、それを聞きながら感心した。ね。信心にはね、どうでも、どうでも明日が親教会の御大祭だから、お参りしなければならない。どうでも、この事の願いを聞いて頂かなければならない。ね。ためには、願わなければならない。ね。おかげ頂くか、頂かんか分からんけれども、ま、お願いしとこと。おかげ頂いたら、まぁ、腑が良かったぐらいな願いではいけん。お願いをしたからには、どうでも、おかげを頂くという願いがあれば、それを貫けばおかげになる。明日も、明後日も、そして、そのまた明くる日も、御大祭が続きます。だから、毎日、おかげを頂かなければならんが、この調子でおかげを頂いていきたいという話でした。ね。先生方としては、近所の、隣近所の、言うなら、お教会に、また、自分所にも来てもらうから、自分も行かなければ義理が済まん。どうでも、やっぱ、おかげを頂かなければならん。だから、その、どうでもという願いが、思いが要るという事なんです。ね。参られるときには参る。参られん時には、参るまい。もう神様が、頭の痛かつは知っとりなさるけんでといったようなことでは、おかげにならん。もう、信心の、おかげを受ける一つの要諦のようなもんです。ね。それにはね、いうならば、今度は、頂くほうの側もです。あぁもう、前講で、ちょっと挨拶のようなものじゃけん、あがな話の中から、おかげ頂きなさるはずはないといったようなもんじゃなくてね、どこの隅からでも、おかげを頂こうという姿勢、構えを作っておくと、いわば、その、若い先生の、いうなら、挨拶の中からでも、私はおかげを頂いておる。そして、それを、毎日、皆さんに話しておるんです。研修のたんべんに話しておるんです。ね。ここに、沢山の修行生がおりますから、ちょっと風邪を引いて、頭が痛いちゃ、あー、今日、休んどりなさる。ね。えへ、嘘じゃなかろう。けれどもね、いうならば、どうでもという願いがあったら、少々頭が痛かっても、それをおかげと頂いて、修行と受けて出させていただけば、そこから、言うなら、変わる。ね。お広前に出る前は、あんなに頭が痛かったが、お広前を下がらせて頂く時には、こういうおかげを頂いたという事は、おかげを頂くという事だけではない。神様の、一分一厘間違いのないお働きを受け止めるという事である。こちらの心次第である。その受け止めるという、その事が、信心を受け止めるという事になるのです。信心を頂くという事になるです。いよいよ、神様の働きの間違いの無い、言うなら、確信を積んでいくことになるのです。だから、そういう確信を頂けれる、絶好の、機会、チャンスを頂いておっても、ね。まぁ、そこで、人情を出したり、ね。人間心を出して、寝たり、ころだりといったような事も、信心の中に入れておったんでは、何時までたっても、芯の力は生まれません。ね。神様を信ずる力は生まれません。ね。
今日は、えー、お月次祭でしたから、お昼、沢山のお参りがございました。えー、新田原のほうから、あー、熱心な方達が参ってまいりました。もう、本当にお話を頂いて感心する。お参りをするという日になると、不思議に、これこれと思うておったお初穂も、おー、建設費も、お供えが出来るようにお繰り合わせを頂く。かというて、冷蔵庫を開ければ、何時も空っぽ。先日からは、電気が止められた。ところが、不思議に電気が点きます。先だってからは、電話も切られた。ところが、電話は、お話が出来ますちいう。まぁ、不思議な不思議な働きの中に、日々、おかげを頂いて、今日も、出がけには、お供えも、お初穂も、このようにお繰り合わせを頂いた。先日、大家さんが見えて、「あーたのところの家賃な、もう、まぁだ二ヶ月払いなさらんで良かごつ、ある人が払うてありますよ」ち言わしゃった。もう、本当に、不思議な不思議な働きを受けております。けれども、神様の前には、ないから、今日は出きんといったようなものではない。どうでもという思いを持っておりますと、まぁ、おかげが受けられる。神様を、いうならば、疑う余地はない。ね。そして、この難儀は、神様が求め給う修行であるとして、成り行きを、いよいよ尊び、大切にさせて頂く心で、お礼を申させていただくと、その苦しいことが、有難うて、もう、夜なんかは、ね。眠れんほどに感動するというて、今日はお届けがありました。不思議な不思議な神様ですねぇ。超が付くおかげです、これは。ね。合楽の場合は、私は超が付くおかげでなからにゃいかん。超大作という風に申しましょう。ね。だから、時々、合楽では、信心のない人が聞くと、非常識とか、ね。もうそれこそ、不道徳のように聞こえるような事があります。けれども、決してそれは、非常識でも、非道徳でもありません。超道徳であり、超常識なのです。ね。超医学であり、超科学なのです。ね。もう、貴方は、子供には恵まれないんだと言われておった人が、十四年ぶりに懐妊のおかげを頂いた。あんたは、生まれつきだと、生まれつきだから、これはもう、いまのが、まぁ、どんな手術をしても、どんな目薬を差しても、これ以上の事は、もう治らないのだと言われ。もう、一生、自動車の運転免許なんか取れないと諦めておった人が、おかげで朝参りをするようになり、ある事で、お参りをするようになったら、おかげを頂いておる。ね。視力が、いうなら、出てきた。ね。これは、やはり、いうならば、合楽の、ね。ゴヒレイによるものだと思います。
今日、私、ここへ座らせていただいておりましたら、えー、テレビでね。何とかジュースの宣伝をしてます。赤ちゃん、ちょっとよちよち歩きの赤ちゃんが、あのこうやって、オレンジジュースをこうやって、飲んでおるのがあります。あれに、まぁ、謳い文句でしょうかね。それこそ、軽快なリズムに乗って、えー、こう、宣伝文句を言っておる、その文句の中に、ね。太陽の子、オレンジの光りを浴びてというところがあります。太陽の子だと、ね。オレンジの光りを浴びてが良いじゃないですか。ね。分かるでしょうか。ね。われ、神の子と、ね。人間は、みんな、神の氏子としての資格を、もう、生まれてくるときに、すでに頂いておるんだと。それを、私共の、我情で我欲で、汚しに汚し、けがれにけがれてきておるから、いうならば、人間のの姿はしておっても。ね。人面、それこそ獣身というような人すらも、段々、出来てくるようになる。神の性どころではない、人間の性どころではない。それこそ、獣の様な性に変わっていくと言うのです。ね。合楽にご縁を頂いておる人達は、何時も、その、ね。オレンジの光りに包まれておる。そういうね、確信が、段々、出来てくるようになると良いですね。まぁ、それを、何時、どんな場合であっても、親先生の祈りの中にあるんだと、ね。それがね、ただ、おかげを頂く事だけで、信心をしておった分では、それが信じられない。おかげを頂きゃ、なるほど、合楽の神様は、新たかだというけれども、そんなら、自分の思うようになることばかりではない。もう、その反対のことになってくると、もう、合楽の金光様は、もう、大したことはないというような事になってくる。ね。例えば、降ろうが、照ろうが、願うたことが、右が左になろうが、ね。親先生の祈りの圏内にあるんだと、分からせていただくようになると、降っても、照っても有難いという事になります。
今日は、福岡の伊藤さんが、えー、くのいち会に、何時もおかげを頂かれる連中、五、六名、一緒にお参りされた。本当にやっぱり、素晴らしいですね。先日も、東京の息子さんから、電話がかかってきた。ね。「この頃、僕は、毎日、三十九度からの熱が続いておる。」「いやぁ、おかげ頂いたね」ちて。「なんが、そげんおかげね」ち言うたら、あーた、三十九度ちいや、サンキュウちいうじゃないの。もう、サンキュウ、サンキュウで受けてごらんち言うて、申しましたら、「本当ね」と言うて、まぁ、息子が申しました。今日は、おかげを頂いて、身体もすっきりしたという、お電話がかかったというて、お礼のお届けがございました。「さぁー、あんた、どうしたの、お医者さんに見せたの」というのとは違うんです。ね。三十九度からの熱がある。ほうらもう、おかげち。ね。そういう頂き方なんです、金光様のご信心は。もう、はぁ、おかげ頂いたの。おかげ、それをおかげと頂けれる信心を頂くために、今日、申しますように、いうならば、話を聞いた上にも聞いて、実行した上にも実行して、神様を信ずる力を作っておかなければ、いざという時に、そういう心が、生まれてこないのです。ね。おかげを頂けれる、いや、御徳を力を頂けれるチャンスに恵まれても、そういう時に、慌てふためいたんでは、おかげにならんのです。船は帆任せ風任せ、ね。神様任せは、親先生任せと言いながら、ね。なんでもない時には、満風を帆にはらんで、いうならば、いっとるけれども、少し、雨が強うなってくる、風が強うなってくると、もう、直ぐにこうやって、帆をたたんでしまう。あれは、源義経ですかね。壇ノ浦、あー、壇ノ浦ではないあれは、屋島の闘いの時でした。ね。もう、それこそ、こういう雨嵐の時には、とても、おー、敵は攻めて来るまいと、平家の人が、その、安心しておる時に、その雨風を突いて、その舟を出した。だから、普通一時間かかるのは、もう本当に、まぁ、強い風を受けてくるのですから、勿論、危険も伴いましょうけれども、あっという間に着いた。というて、大勝利を得たと言う話があるでしょう。ね。そういう時にね、それこそ、ね。いわゆる、神様任せ、親先生任せになれれる度胸をね、日頃、作って頂いておかんと、迷います。ね。苦しいんです。ね。そこに、任せきる心が頂ける時に、もう、それこそ、ままよとは、死んでもままよの事ぞと言う、どん腹が座る、ね。十分の徳を受けようと思えば、ままよという心を出せよ。ままよとは、死んでもままよの事ぞと仰せられる。それは、十分、徳を受けさせてもらえるチャンスを頂いた時にです。帆をたたんでしまったら、どういう事になるか。あれよ、これよと迷うたらどうなるか。ね。そこを迷わんで済む。ままよと、どん腹を据える。ね。そこからね、おかげも受けられる。それを境に力も受ける。お徳を受けるという事になります。
今度の寒修行で、もう、あんたが、今度の寒修行じゃ、おかげの受け頭ばいと言う婦人があった。それはもう、たまには参ってくるけれども、それこそ、お願いのあるときだけ、月、何回か参ってくるです。それが、今度は、息子さんの、ある事で、えー、寒修行を思い立った。近所というても、少し離れておるところの人を、自動車に乗せて、二人で、毎朝参ってくる。段々、お参りをしてくるうちに、もう、それこそ、永年お参りしよったけれども、こんなお話は初めてというお話が、毎日続く。お話が身に、血に肉になってきよる。有難うなって来た。あの人が乗せていってくれと言われるけんで、こう廻ってから、その方を乗せてくるけれども、始めの間は、あー、言うなら、面倒くさいなぁと言うような心もあったけれども、ね。その方が、大変に喜ばれる。もう、私も永年、合楽に参って、おかげもいただいとったばってん、まぁ、三橋先生の従兄弟になる。あの人達が、もう、とにかく、金光様に参れ参れと言うけん、まぁ、主人のあの大病の時に参って、おかげを頂いたけれども、有難いなんてことは、全然、参れと言うけん参るじゃったけれども、今度は、その方と一緒に参ってくるようになって、信心が楽しゅうなってきた。愉快になってきた。もう、本当に、あの人達が言うとおりに、お話を頂かなければ分からんというて、二人が、それこそ、喜びいっぱいで毎朝参ってくる。毎日、毎日の、いわゆる、教えの実験であり、あくる日は、その実証のお届けでありました。二十日ぐらいお参りだったでしょうか、立派な、ワンピースを着て来とりなさった。もう、先生、昨日はもう、思いも掛けない人から、このワンピースを頂きました。が、ワンピース何ち言うかの、こう、一番上に着る、ね。あぁ、おかげ頂いた。そして、帰って見ましたら、自動車のトランクの中に、米が一俵入れてありました。それは、後で、誰々さんからという事は分かりましたけれども、もう、こげなこつは初めてです。お米を貰うたり、着物を貰うたり。こらもう、あんた、衣食住の徳を受けよるたいと申しました。人間の幸せというのは、勿論健康です、ね。けれども、それに、衣食住のお徳を受けたら、人間の幸せは、そこにあるのです。ね。衣の徳を受けよる。食の徳を受けよる。まぁ、お徳と言うものは、こんなもんだよと、その印を見せて下さったような感じがするねと言うて、ま、喜び合った事でございます。ね。本当にね、話を聞いて助かる道なんです、確かに。ね。それは、自分の心の耳で、頂かなきゃいけんのです。神様が仰せられる、世界中の氏子に話がしてみたい。どんな悩みでも難儀でも、神様の心の奥の底を分からして貰うたら、ね。そういうご神意の元でしたか、それ一切が神愛と聞いてはおるけれども、初めて神愛であることが分かった。その難儀な問題にお礼が言えれるようになった。その事を合掌して受けれる心が、姿勢が出来るようになった。ね。本当に、神様は、一人一人に話がしてみたいと仰せられる神様。そこへ、私共は、日々、それを聞き取るだけの姿勢と構えを作っておかなければならない。勿論、耳も肥えてくる。ね。それは、肉事であってはならぬ、神事でなからなければならない。心の耳が豊かにならにゃいけん。ね。合楽の人達の場合は、もう日々、もう、それこそ、神の話である。神の声である。ね。それでも、それを、ただの話で受け止めておったんでは、詳しゅうはなっても、おかげにはならん、御徳にはならん。ね。それこそ、地獄極楽巡りのお話じゃないですけれどもね。ずーっと、地獄極楽巡りをしよった。ガイドさんが、ずーっと、説明して下さる。こらもう、妙なその、山がある。ね。もう何か、縄んごたるとば、こう積み上げたごたる山じゃん。「あら、何ですか」ち聞いたら、あれはね、前世、いや何、こちらに居る間に、ね。お寺さんによく参って、お説教を聞いて、言うなら、耳だけが楽しんどる。はぁ、今日は良かお話じゃった、良かお説教じゃった。耳だけが極楽行きをしとる。耳だけが、その極楽行きをして、身体のほうは地獄行きといった様な事ではいけん。ね。言うならば、信心が詳しゅうなっただけでは、それこそ、耳だけの、いうならば、楽である。心からそれを頂かせてもらい。いうならば、肉にも血にもして行くところの、おかげを頂くためには、言うなら、姿勢を作る、構えを作る。そこには、ね。神の声は絶えず。それこそ、流行歌の、歌の文句の中からでも、ね。赤ん坊の泣き声の中からでも、神が物を言うて聞かすと仰せられるような、それに触れることが出来る。ましてや、ここで、お話を頂くというのは、そのままが、いうならば、神の声である。ね。そして、私共の自覚がです、いうならば、ね。屑の子の自覚に立たせてもらい。ね。そこから、今朝の研修にも、今日の昼の研修にも申しました事ですけれども、人間と言うものは、段々、信心して、改まりに改まってまいりますと、片付けなければならんところは片付ける。整頓が、きちっと出来ておる。ね。汚れたところは、綺麗に拭き掃除がしてある。そこには、信心の喜びの花が差してある。ほんに気持ちが良い。そういう時に、われながら、わが心が拝める時なのである。われとわが心が拝めて、初めて人が、物が拝めるようになるのある。そこに、信心の楽しみ、喜びがあるのです。ね。そういう、いうならば、稽古をしなければ、話を聞かなければ、稽古の手立てが分からん。金光様のご信心は、どこまでも、話を聞いて助かる道なんです。いまも申しますように、話を聞かんでも、参ってはこんでも、ね。それこそ、まぁ、超おかげというよりほかに無いほどしのおかげを頂く。また、あー、日々、そういう、ゴヒレイが輝いておるのが、今日の合楽ですけれども、なら、何時もかつも、そんなら、電話でお願いしてから、またこげなおかげ頂いたばっかりでは、続くとは思われない。どんな場合であっても、それを、おかげと受け止める。はぁ、そりゃサンキュウという頂き方がです。ね。身に付いてこなければなりません。ね。構えを作らせて貰う。言うなら、私は、今度、親教会の御大祭で、ね。若い先生の、いうならば、あー、お説教なさる先生のお紹介をなさる、その挨拶の中から、私が受け止めたもの、ね。それは、おかげを受けるためには、どうでもというものがなからなければならない。そして、それを願わなければならない。これはもう、どうでも、教会長として、親教会には、どうでもおかげ頂かねばならん。また、隣接教会の御大祭が続くから、これにもおかげを頂かなければならん。どうでも、そこに願いがあり、構えがある。そこに神様が、おかげを下さらんはずはないという確信が生まれてくる。その確信が、いよいよ、募り募って、絶対心が生まれてくる。ね。その絶対心の中に生きたい、ね。初めて分からせていただくことは、われ太陽の子である。われ神の子である。ね。いつも、オレンジの光に包まれておるのである。いつも、合楽の祈りの圏内にあるのだという、そこに心の喜びも、安らぎもいただけるおかげを頂きたい。どうぞ。